当社の創立年代は不詳であるか、社伝によれば、仁科森の城主
の祈願所として、崇敬厚く、仁科盛遠公承久二年(一二二〇)神鏡
及び御簸石を奉納し現存する。
御籤石は五貫匁余りあり、「承久二年盛遠」と彫刻してある。氏
’rの中に危篤の病人があった時は神前に詣で、病人の全快を祈り
御籤石を持ち上げる。もし全快する患者ならば。その石憾く、全
快しない患者ならば、どんな力持ちでも、これを持ち上げること
ができない。この神事は近年まで行われていた。
社伝によれば、仁科氏敗れて水中に入りしとき、鴆か同道した
ため危羅にかかった。これにより鳥属を建てない神社として特筆
されている。
現存する棟札は、延久四年二〇七二气元ぴ二年(匸二一二)の
ものがあるが、延享四年(一七四七)&根原重左衛門ほかと銘記さ
れ、以下年代を追って地。兀の住人作と思われる。現在の本殿は明
洽一五年二八八こ北沢喜代古作のものである。
明治五年二月村社に列す。創祀年代は不詳。
仁科氏が祖である安倍貞任・安倍宗任兄弟を祀った神社で、
古くから森集落の氏神として崇敬されてきた。
前九年の役(1061)で奥州から落ちのびてきた安倍貞任は
当地にて仁科姓を名乗ったという伝承があり、
森の城に住んでいた貞任が、ある時、敵に追われて逃げ場を失い
木崎湖の水中に潜って逃げた。
ところが、日ごろ城中で可愛がっていた鶏と犬が主人のあとを追って木崎湖に入り
それが目印となって、
貞任が岸へたどり着いた所を捕らえられ殺されたという。
当地にある「阿倍渡」という地名は、貞任が岸に上がった場所。
「阿倍渡」周辺では、
鶏と犬を祟りがあるとして飼わない風習が残っており
「トリ」の音を忌んで、当社には鳥居がないそうだ。 |