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memo |
清和天皇の貞観六年、富士山噴火の折、南都留の福地八幡を勧請して祀られた。 依ってこの辺を福地居と総称、中世より藤井の字に改められた。 慶長六年打量の折、二村に分れ北下条の地に社殿を建て神霊を勧請す。 往時は黒印神領一石八斗、社地三千四拾坪、慶長四奉行の制札藏す。 東方一町半黒沢川の辺に古へ壱の鳥居あり、華表の蹟存し御幸通りあり、神田、神楽田といふ地名が残ってゐる。 |
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清和天皇の貞観六年、富士山噴火の折、南都留の福地八幡を勧請して祀られた。 依ってこの辺を福地居と総称、中世より藤井の字に改められた。 慶長六年打量の折、二村に分れ北下条の地に社殿を建て神霊を勧請す。 往時は黒印神領一石八斗、社地三千四拾坪、慶長四奉行の制札藏す。 東方一町半黒沢川の辺に古へ壱の鳥居あり、華表の蹟存し御幸通りあり、神田、神楽田といふ地名が残ってゐる。 |